2 ブルースにおけるレコード

2.1 ブルースの特徴

序章で述べたように、ブルースは黒人の心の歌である、と簡単に定義づけることはできない。しかし、多くのブルースには、いくつかの共通点がある。そのような共通点を論ずることで、ブルースの特徴を明かにできるのではないだろうか。

何度も述べるように、しばしばブルースは心の歌といわれる。確かに、そのような心情を歌った歌も多い。例えば、女性との別れであったり、辛い農作業についての歌であったりする。また、ブルース歌手の中でも、そのような事をいう人間は多い。

「ブルースをやるには、頭の中にストーリーがあってそれを表現するんだよ」デビッド・ハニーボーイ・エドワーズ
「ブルースは、いつも自分と一緒にあるもの」R.L.バーンサイド
(どちらのインタビューも、BS2「山崎まさよし ミシシッピをいく~ブルースの伝統をたずねて」より引用)

しかし、ブルースの歌詞をみてみると、多くの歌手は個人的な体験を歌っているのだが、その中には多くの常套句が存在しているのがわかる。例を挙げてみると、女性について歌った歌に多い”I woke up this mornin',”という歌詞がある。「朝起きたら、もうお前はいなかった」、「朝起きたら、お前の靴がなかった」、「朝帰りのお前の服、似合ってないぜ」なども、同じような常套句として挙げられる。

また、一番が全て同じ歌詞であったり、歌詞と歌詞の間が、ハミングで埋められることもあった。それに、ブルースは露店の客引きのために、メディスン・ショウとして歌われることもあった。そのようなときは、歌詞は当然商品に関係したものになった。
このように、ブルースにおいては、即興的なものや、常套句や埋め合わせのようなものも多いことから、歌詞はそれ程重要視されていなかったのでは、と推測される。

一方、演奏の側に目を向けると、いくつかの共通点がみてとれる

まず第一に、1番の小節数が12小節で、AABというように3つにわけて歌われていることが非常に多い。そして、使われているコードは、トニック、ドミナント、サブドミナントの3つである。
第二に、ペンタトニックを用いたフレーズが多い。ブルースの場合は、4度と7度の音を抜いたペンタトニックが用いられ、このペンタトニックを基にメロディーが作られたり、伴奏楽器のソロ・フレーズが作られている。
第三に、ブルーノートを使用している。ブルーノートとは、長でも短でもない3度、中立3度と、フラット7度のことであるが、この曖昧な音を出すために、ギターの弦を引っ張ったり(チョーキング)、ハーモニカの穴をきつく吸い、空気の流れを変えて音を下げる(ベンディング)。
勿論、上の要素を持たない例外もある。ブルースの中にも、8小節で終わったり、長3度を使った曲も多い。
しかし、上に挙げた3つの要素は、ブルースと呼ばれる多くの曲に共通するものであり、20世紀初期に作られたカントリー・ブルースにも、そして現代において作曲される新しいブルースにも共通する要素なのである。これらのことから、ここではあまりに簡潔に述べられているが、上の3つの要素を、ブルースを特徴づけるものと捉えて良いのではないだろうか。

2.2 ブルースの歴史

ブルースが何年に誕生した、と断定することはできない。おそらく黒人共同体の中で自然と発生し、その後多くの人が演奏する中で発展していった、と考えるのが適当だろう。

19世紀の中頃には、ブルースの基となる型が存在していたようである。当時は、ダンス音楽、綿の摘み採りのためのワークソングなど、色々な形で歌われていた。
20世紀に入り、1912年、楽譜として販売されるシートミュージックのブルースが出現した。印刷という複製メディアにブルースが乗った、初めての例である。それを受けて、W・C・ハンディが、1913年、友人と楽譜出版会社を興す。そして、翌年1914年、セントルイス・ブルースを刊行し、これが大ヒットを記録する。
楽譜は、はなはだ不備なものであるが、しかしブルースの発展に大きく貢献した。ブルースが楽譜という形で発売されることで、先ほど述べたブルースの特徴の形成を促した。また、白人たちの間でも、ブルースの普及を促した。譜面のブルースの消費者の主体は白人層であり、ブルースの話法は、大衆音楽の書き手たちにヒット曲を作るための武器を与えた。(湯川新『ブルース 複製時代のフォークロア』法政大学出版局、1988、p.12)
1920年、レコードのブルースが出現した。その年にマミー・スミスの「愛と呼ばれるもの」が録音されたが、これは、ティン・パン・アレーの黒人作曲家、ペリー・ブラッドフォードの発案だった。そして、続く「クレイジー・ブルース」が大ヒットを記録した。定価1ドルだったが、最初の一ヵ月で7万5000枚売れた。このことが、黒人向けのレコード市場の需要を明らかにし、そしてこの結果を受けて、黒人音楽家の録音の活発化につながった。(湯川新『ブルース』p.13)
この黒人音楽市場の活発な状況を受けて、レコード会社も活発に黒人レコードを出し始めた。1921年、アルト、エマーソン、ブラックスワン、コロンビア。1923年、パラマウント、ヴィクター、ヴォカリオンが黒人向けレコード(レイス・レコード)を出し始めた。
ブルースの録音が開始された当時の代表的な歌手として、マミー・スミス(1883~1946)、ベッシー・スミス(1894~1937)、マ・レイニー(1886~1939)が挙げられる。彼女たちは、自分で一座を主宰して、綿花の収穫期に南部一帯を廻った。
そして、女性歌手の録音開始の3年後の1923年、男性歌手の録音が始まった。
男性歌手の例として、ブラインド・レモン・ジェファーソン(1897~1930)、ペグ・レッグ・ハウエル(1888~1966)、チャーリー・パットン(1886~1934)が挙げられる。彼らは、路頭をさまよう音楽家であったり、メディスン・ショウ、サーカス、ミンストレル・ショウなどで生計を立てていた。
そして、1926年、アコースティック録音からマイクロフォンを使った電気録音へと変わっていく。これにより、今までより小さな響きまで録音が可能になり、ブルースの録音が本格化した。
この活況を受けて、南部の都市、アトランタ、ダラス、バーミンガム、ナッシュビルなどには、レコード会社のタレント・スカウト、あるいは移動の録音部隊が繰り出された。勿論、全ての土地はカバーできず、スカウトの好みも、どのような歌手を選ぶか、ということに影響した。しかし、これらのスカウトの存在が、歌手の出現に大きな力を及ぼした。(ポール・オリヴァー『ブルースの歴史』米口胡訳、晶文社、1978)
女性歌手と男性歌手は、共に活躍していたが、彼らの間には大きな違いがあった。例えば、女性歌手はスポットライトを浴びるスターとして扱われたが、男性歌手は街頭をさまよう放浪者のような立場にあった。他にも、録音時の報酬を比べると、女性歌手は数100ドルであったのに、男性歌手は10ドル程度であった。
1933年に禁酒法が廃止され、酒場でのブルース歌手の需要が高まった。また、この頃には、都会風のテクニックを持った、新しいブルースの演奏者が求められた。(ポール・オリヴァー『ブルースの歴史』p.199)若いブルース演奏者は都会に出て、そして彼らの演奏はより変化を遂げた。しかし、老いたブルース演奏者は農村に残り、彼らの演奏は変化に乏しく、以前のままの演奏が続けられた。
1920年代は、ブルース・レコードの開花の時期であり、ブルース・レコードの黄金時代の幕開けでもあった。1928年には、1000程のブルース、ゴスペル関連のレコードが市場に出され、南部農村の民俗音楽までレコード化されている。
また、この事からわかるように、当時において蓄音機やレコードは、黒人社会の中で収入に恵まれていた一部の階層の特権ではなかった。多くの人々がレコードを聞いていたのである。そして、そのレコードは、楽器屋、ドラッグ・ストアー、家具店、劇場、床屋、通販などで販売され、レコードはアメリカの広範囲に渡って販売されていた。20年代において、レコードは黒人たちの共有する唯一のマス・メディアであった。(湯川新『ブルース』p.32)

ブルースは、レコードの拡大や黒人の移住と共に全米の各地に広がり、そして発展していった。それと共にいくつかのジャンルが生まれたが、それらにはその土地の名前が付けられた。
少々時代が戻るが、ブルース・シーンの初期の中心は、ミシシッピ地方のデルタ地帯だった。そして、そのデルタ・ブルース・シーンの絶頂期(1920年代~1930年代)を代表するのが、ロバート・ジョンソンである。彼の奏法(ブギウギ・ピアノを模したものや、サン・ハウスらの影響を受けたスライドなど)は、初期から現在に至るまでのロック・シーンにも大きな影響を与え続けている。
初期のミシシッピ・ブルースは、レコードの普及やミュージシャンの移動によって、アーカンソー、セントルイスへと広まっていった。
その拡大を受けて、シカゴでは、より攻撃的、外向的ブルース、および集団演奏を生み出した。このシカゴ・シーン(1930年代~1940年代)を代表する歌手として、ビック・ビル・ブルーンジーが挙げられる。

1940年代に入ると、大きな影響を及ぼす事件が起きた。アコースティックな楽器ではなく、アンプを通して、音を増幅させた楽器を弾くプレイヤーが現われたのである。これは、エレクトリック楽器を弾くプレイヤーを擁するスウィング・バンドが人気を集めたことに起因する。そして、この現象は、当時のブルース・シーンを浸食し始め、ブルースにおいてもエレクトリック・ギターを用いた歌手も増え始めた。
このエレクトリック楽器の使用は、更にもう一つの効果を生み出した。南部の酒場では、演奏の音量を大きくしないと聞こえなかった。そのため、演奏者は、アンプが増幅できる最大の音量にしなければならなかった。これにより、当然真空管の限界を超えてしまうことになり、必然的に音が歪んでしまった。しかし、この歪んだ音こそが、後世のロックのギターの歪んだ、騒々しい音につながっていったのである。

第一次大戦中の労働力不足を補うために、それまで南部農村に住んでいた黒人たちが、北部の都市へと移住を始めた。黒人たちは、過酷な生活状況に耐えるために互いに同じ場所に住み、ゲットーを形成した。レコードは、このように全米に広がり始めた黒人を相互につなぐメディアの役割を担っていたのである(注3:新聞は当時ではまだ識字率が低く、一部のみが利用するに過ぎなかった。また、映画は黒人たちは観客のみであり、出演はなかったし、ラジオは、当時はまだ高価で買えなかった)。こうした背景の下で、シカゴやデトロイトへの黒人の大移動の波のなかに(戦争の進行が軍需工場や製鋼工場での労働者の需要を高めた)、多くのブルース歌手は入り込んで、共に北部の大都市へと流れていった。
第二次大戦後に、再び大きな動きが起こった。第二次大戦までは、ブルースの録音は、少数の大会社によって行われていた。しかし、1940年代後半から、黒人によって経営される小さな会社が商業生産を開始し、その数は多数にのぼった。シカゴ、デトロイトにおいても、新会社が活動を開始した。その中でも、特に重要な会社として挙げられるのが、チェス・レコードである。
1947年、チェス兄弟と女性パートナーは、ジャズやブルースのレコードに対する需要を察知して、アリストクラット・レコードをスタートさせる。このレーベルは、ジャンプ・ブルースやジャズはもちろん、スピリチュアルや甘いブルース・バラードも録音していた。
1948年、マディ・ウォーターズの「アイ・キャント・ビー・サティスファイド」が大ヒットし、これを受けて、デルタ・ブルースの曲が多く発売された。しかし、この会社には色々問題があり、財政困難により行き詰まり、結局新しいリリースは、新しいチェス・レコードに任されることになった。(川副正大「シカゴ・ブルースの成立とそのR&B化」『ジャズ批評No.44 特集黒人雑学事典』、p.515)
チェスの代表的ヒット作は、ジーン・アモンズの「マイ・フーリッシュ・ハート」とマディの「ローロング・ストーン」であった。ここから得た南部のデルタブースは売れる、という予測のもとで、チェス兄弟の一人、レオン・チェスは南部の配給網を確立するために、また、新しい演奏家と契約を結ぶため、南部へ旅に出た。 そして、これが良い結果を生むこととなった。南部でのラジオの拡大の影響もあり、チェスは勢力を拡大し、ブルース・シーンを代表するレーベルへと成長していった。

戦後から1950年代にかけて、多くのレコード会社が乱立し、非常に多くのレコードが発売された。それと同時代に、音楽の嗜好性が変化し始めた。新しい世代の人間にとって、伝統的なブルースは厳しい奴隷時代を思い出させるものとして嫌われ、伝統的な南部の音楽はあまり聞かれなくなったのである。
しかし、この事が逆に、新しい歌手の出現を促した。その歌手として、T-BONE・ウオーカー、B .B. キング、ボ・ディドリーなどが挙げられる。彼らはエレクトリック・ギターを使い、フレーズも伝統的なブルースのフレーズだけではなく、洗練されたジャズの影響も受けていた。そのような新しさによって、彼らは単にブルース歌手というだけでなく、それまでのブルースと、次の時代の音楽、R&Bへの橋渡し的役割を担ったのである。

そのような新しいブルースの流れが起こり始めた1950年代から60年代にかけて、主にヨーロッパでも新しい動きが起こった。ヨーロッパでブルースの研究書が出版されたり、ヨーロッパ人によりブルースの研究が行われたりした。その結果、ヨーロッパでは、白人の間においてもブルースが受容され始め、それが特にイギリスの音楽に大きな影響を与えた。そして、それがアメリカへ逆輸入されたのである。

この事象に関しては、第4章で論ずる。ここでは、ブルースにより、特にイギリスでブルースを模倣したグループが、多く出現した、という程度に止めておきたい

2.3 ブルースの影響

さて、イギリスにおいて多くのグループが、ブルースの影響を受け誕生した、とすぐ上で述べているが、その影響は一体どのような形で表われているのであろうか。それを明らかにするために、例として、ブルース側からロバート・ジョンソン、イギリス側からエリック・クラプトンを取り上げ、比較してみたい。

ロバート・ジョンソンは、1911年にミシシッピに生まれ、1938年に毒殺された。時代的には、デルタ・ブルースに属する古い歌手であるが、しかし、彼は今だに最高のブルース歌手として評価されている。
彼が最高だと評価されているその理由はいくつか挙げられるが、まずブギウギ・ピアノのベースの動き、ウォーキング・ベース(注4、コードの構成音のみ弾くのではなく、いわば歩くように弾くベースの奏法)をギターで演奏し始めた点である。このガッガガッガというリズムは、現在でも多くのギタリストが使用している。
そして、もう一つは、どの曲にも当てはまるエモーショナルな歌い方である。彼の歌は、時に激しく、時にエロティックに聞く者に訴えかける。
彼が残した約40曲程の曲は、次に述べるエリック・クラプトンをはじめ、多くの演奏家に多大な影響を与えたのである

エリック・クラプトンは、1945年にイギリスに生まれた。彼にとって、ブルースが最も重要な音楽であることは、彼自身の発言から伺うことができる。

(自分をジャンル分けするなら?、という質問に対し)
「心の中では、ブルース・シンガーだと思っている」
(BS2「エリック・クラプトン ライブ」内でのインタビューより)

彼の名前が広く知れ渡るのは、ヤードバーズというグループに参加してからである。
1963年に結成されたヤードバーズは、アメリカから輸入されたブルースのカヴァーを演奏して活動を開始し、ロンドンのクラブの中で人気を得ていった。しかし、1964年のビートルズや他のイギリスのバンドの成功をみて、ヤードバーズのメンバーも、ブルースよりももっと商業的に成功しやすいポップスへの転向を決心した。ところが、このようなポップ化を受けて、エリック・クラプトンは自分のブルースを求めるためヤードバーズを脱退したのである。
その後、1966年、クラプトンは、新しいグループ、クリームのギタリストとしてデビューした。このグループは、ベースにジャック・ブルース、ドラムスにジンジャー・ベイカーを擁したトリオで、ブルースを基にした、即興性、攻撃性溢れる演奏でたちまち人気を得た。そして、このバンドの最高の作品と言われるのが、ロバート・ジョンソンの「クロスロード・ブルース」を編曲した「クロスロード」である。
エリック・クラプトンは、ロバート・ジョンソンについて次のように語っている。

「ロバート・ジョンスンはおれには、いちばん重要なブルーズ・ミュージシャンだ。ジョンスンは自分のヴィジョンに間違いなく正直であり、おれは30年間にわたってその音楽に深く入り込んできたわけだけど、ロバート・ジョンスンほど奥深くソウルフルなものには出くわしたことがない。ジョンスンの音楽は、人間の声が発したものとしては、最高にパワフルな叫びだね」
(ロバート・ジョンソン《コンプリート・レコーディングス》CBS/ソニー CSCS-5320-1、1990、解説書、p.61)

さて、二つの「クロスロード・ブルース」を比較してみると、まずロバート・ジョンソンの「クロスロード・ブルース」は、カントリー・ブルースのスタイルで歌われているが、クリームの「クロスロード」は、一転して歪んだ音で、激しく演奏されていることがわかる。また、「クロスロード・ブルース」は、良くいえば自由な、悪くいえばいい加減なリズムで演奏されている。一方、「クロスロード」は、2.1で述べた、多くのブルースに共通するスタイルに編曲されている。
クラプトンは、「クロスロード・ブルース」を編曲したときの事を、次のように言っている。

「バンドのフォーマットで簡単に解釈のできそうな形を見つけるってことになった。……〈四辻ブルーズ〉〔「クロスロード・ブルース」〕には、くっきりとしたリフがある。……それをこっちは、1、2本の弦に置き換えて、飾ってみたんだ。全曲のなかで、ロックンロールの道具としては、それがいちばんやりやすかったんだけど、あのアルバムにはとても触われない曲があったね」
(ロバート・ジョンソン《コンプリート・レコーディングス》解説書、p.60)

ロバート・ジョンソンの「クロスロード・ブルース」は、一度聞いただけでは、頭の中できちんと譜割りができるような演奏ではなく、彼のスライドは、まるで彼の歌声と同化しているかのように、ギターの指板の上を駆け巡る。一方で、クリームの「クロスロード」は、1番が12小節のAABの構成になっており、またコードはA 7、D7、E7のトニック、ドミナント、サブドミナントが用いられている。いわば、典型的なブルース形式をとっている。
しかし、クリームのメンバーは、ロバート・ジョンソンをただコピーしようとは思っていなかっただろうし、また古いブルースを、直接コピーしようとも思っていなかっただろう。もしそうなら、すぐさま自分の楽器を、アコースティック楽器に持ち替えたはずである。彼らは、ブルースのもつ力強さ、生々しさをコピーしようとしていたのではないだろうか。
「クロスロード」は確かに典型的なブルース形式である。しかし、クリームのメンバーは、ロバート・ジョンソンの「クロスロード・ブルース」に存在するエネルギーを自分たちで解釈をし、その結果が「クロスロード」として表われたのではないだろうか。
エリック・クラプトンは、クリーム時の活動について次のように述べている。
(クリーム時代にブルース的要素を、もっと反映させたい、という気持ちはあったか?、という質問に対し)
「その逆だと思う。そういう一面をあえた出さないようにしていた。……むしろ、ブルースでの表現はしまっておいて、違う分野での開拓をしようとしていた」
(BS2「エリック・クラプトン ライブ」内でのインタビューより)

1960年代から、イギリスにおいて、ブルースに影響を受けた曲が多く作られた。これらの曲により、より多くの人々にブルース形式やブルースそのものが紹介され、そしてブルースはロックと結び付き、ブルース・ロックという新しい形が生まれた。
しかし、その他にも、新しい変化が存在した。それまでは、ブルースを演奏する白人はほとんどいなかった。ところが、クリームなど、イギリスの若い演奏家たちはブルースを好んで演奏し、それを発展させた。つまり、それまで黒人音楽であったブルースが、白人の手を経て変化し、白人が演奏するものへと変化を始めたのである。