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第四章-黒人音楽から白人音楽への転化

2017.11.23

4 黒人音楽から白人音楽への転化

4.1 アメリカ社会の動き

黒人音楽は、1950年代から60年代にかけて拡大を始めた。そして、その舞台となったのは、アメリカである。黒人音楽の具体的な論に入る前に、1950年代から60年代にかけての、アメリカの社会的な動きについてふれておきたい。

第二次世界大戦に勝利を受け、1950年代のアメリカにおいて、国民の生活水準は向上した。それを受けて、労働者の中産階級化が進んだ。しかし、そのような繁栄の一方で、合法的な人種差別や、性差別、冷戦状況下での保守主義の台頭など、暗い面も存在していた。冷戦状況下において、反共産主義がとられ、個人の自由、正義が抑えつけられた。
1960年代は、暴力が頻発した時代だった。そして、アメリカ人の価値観を左右する社会的に大きな動きが二つ存在した。一つは黒人の公民権運動の活発化であり、もう一つはヴェトナム戦争の反戦運動である。
アメリカは、共産主義への対抗としてヴェトナム戦争に参戦したが、このヴェトナム戦争により、長い間隠されていた多くの問題が噴出した。それを刺激に、学生運動、反戦運動、女性運動、マイノリティーの運動など様々な運動が活発化した。多くの大学生は公民権運動を支援し、学園闘争など多様な社会批判を行った。
そして、既存の体制を疑問視するカウンター・カルチャーが、多様な分野に広がった。ヒッピーが増え、従来の社会規範、世界観が見直されたのである。(オーガスト・ラドキ『アメリカン・ヒストリー入門』川口博久他編、南雲堂、1992、p.236)50年代から60年代は、アメリカ社会の一大転換期といえる。

4.2 1950年代以降の黒人音楽の拡大

4.2.1 アメリカからヨーロッパへ渡ったブルース
第二次大戦前の音楽の主流は、ティン・パン・アリーの音楽だった。このティン・パン・アリーとは、ニューヨーク、マンハッタンの28丁目、5番街と、ブロードウェイとに挟まれた一帯のことで、音楽出版社や楽器店が数多く集まっていた。レコードがなかった頃は、客を相手に、昼間からピアノを弾いたり歌ったりして楽譜を売っていた。そして、レコードの登場後、このティン・パン・アリーの音楽は、ブロードウェイ・ミュージカルの人気とともに成長を続けた。
第二次大戦前までは、白人の間で黒人音楽が聞かれることは、ほとんどなかった。しかし、第二次世界大戦後に新しい動きが起こった。黒人音楽が、白人社会に入り込んできたのである。

現在では一つのジャンルとして確立された感があるR&Bという言葉は、1949年に業界誌に登場した。それ以前には、一切の黒人音楽はレイス・ミュージックと呼ばれていた。1920年代のブルースのレコードにはレイス・ミュージックと記されており、ブルース、ジャズ、ゴスペルなどあらゆる黒人音楽がそのように呼ばれていたのである。そして、戦前にこのようなレイス・ミュージックのレコードを作っていたのは、各地の小さなレーベルで、レイス・レコードは、主に地元の黒人社会の間で親しまれていた。
1950年代に入ると、黒人音楽が徐々にR&Bとして広がり始めたが、R&Bは、当時では依然黒人社会の中の歌であり、白人社会に受け入れられることは少なかった。その一方で、安い著作権で購入した黒人音楽を、白人が歌詞を変えたカバー・レコードは頻繁に作られ、こちらの方はよく売れた。当時の白人社会は、黒人音楽に描かれた、背徳的で生々しい死や性的な表現を受け入れなかったのである。また、レコード会社の宣伝や販売力の違いも影響を与えた。CBS、NBCといった全国ネットのラジオ局も白人のカバー・レコードを支持し、それが白人のカバー・レコードの売り上げにつながった。
このように、アメリカでは、黒人音楽は好意的には受け入れられなかった。ところが、ヨーロッパでは、逆に黒人音楽が受け入れられたのである。

1959年から1960年、ヨーロッパにおいて、本格的なブルースの研究書が初めて出版された。また、ヨーロッパ人によって、アメリカでのブルースの研究調査旅行が行われ、その結果多くのブルース歌手が再発見された。そして、その好意的な状況を受け、多くのベテラン歌手がヨーロッパに演奏旅行に行き、ヨーロッパの多くの音楽家に影響を与えた。ヨーロッパに演奏旅行を行った歌手の例として、ビック・ビル・ブルーンジーやマディ・ウォーターズが挙げられる。特に、ビック・ビル・ブルーンジーは多くの音楽家に影響を与えた。

「その番組〔”This Wonderful World”というドキュメンタリー番組〕で、ある時、ビック・ビル・ブルーンジーがクラブで演奏している映像が流れたんだ。……僕が本物のブルースを見たのは、あの時が初めてだったね。……もちろん、その他のブルースマンからも影響を受けたよ。中でも、ブラウニー・マッギーの影響は強かったな」(「バート・ヤンシュ」『アコースティック・ギター・マガジン』井上秀雄他編、リットーミュージック、Vol.6、 2000、p.63)

その後も、ブルース歌手の訪欧は続き、ブルースに関する研究書や雑誌が出版された。
このような状況下では、イギリスでブルースを演奏する白人が生まれるのは当然であり、彼らはブルースとロックを結び付け、ブルース・ロックを生み出した。このイギリス発のロックが、その後アメリカに渡り、大きな影響を及ぼすのである。そして、ブルース・ロックの拡大については、4.3.2 イギリスからの逆輸入の部分で述べたい。

4.2.2 白人社会へ入り始めたゴスペル

ブルースが、イギリスでブルース・ロックへと変化したように、ゴスペルもまた、ソウルに変化し、ポピュラー音楽に影響を与えた。それでは、ゴスペルは、どのようにソウルへと変化したのだろうか。

ソウルの特徴は、ゴスペル的な歌唱法、シャウトを用いる点であったり、コール・アンド・レスポンスやシンコペーションといった要素を受け継いだ点である。そして、ゴスペルが神を讃えたのと同様に、ソウルは、人間愛や人間関係についてのメッセージを歌った歌といわれている。(キャサリン・チャールストン『ロック・ミュージックの歴史(上) スタイル&アーティスト』佐藤実訳、音楽之友社、1996、125p)
そのソウルは、50年代から60年代に次第に形を整え始めた。そして、60年代中頃には大きな波となり、ソウルという言葉が自覚的に、しかも誇らかに歌詞の中で用いられるようになった。(中河伸俊「サム・クックとジェームス・ブラウンの対照的な魅力」『ジャズ批評 黒人雑学事典』、p.483)白人の人種差別の下で、自分たちの誇りがうちのめされていた時代、自分たち、黒人の誇り取り戻すために、ソウルという音楽が役に立ったのである。
ソウルを用意したのは、教会とゴスペルである。ソウルは、音楽的にはブルースやR&B、ラテンなど様々な要素が混ざっている。しかし、ソウルのポジティヴな姿勢と直接的で密度の高い感情表現は、ゴスペルから受け継いだものである。(中河伸俊「サム・クックとジェームス・ブラウンの対照的な魅力」、p.483)
一つには、よくいわれることだが、60年代に高揚した公民権運動が、ソウルにみられる前向きの気分を、黒人の間に広げる原動力になった。そして、もう一つは、ヴォーカル音楽として成熟しきったゴスペルが、「聖」なる音楽の殻を破って、世俗音楽の世界へ噴出しようというような事態が、50年代中頃には既に起こっていたのだ。
しかし、ゴスペルとソウルの間には、大きな隔たりがあった。もともと教会音楽であったゴスペルは、いわば「聖」なる音楽であり、ソウルは商業主義に関係した「俗」なる音楽である。
この隔たりを埋める、「聖」と「俗」をつなぐ架け橋の活躍をした男こそ、サム・クックであった。

サム・クックは、1931年にシカゴに生まれた。彼の父親が牧師だったため、人並み以上にキリスト教と黒人音楽に親しかった。そんな彼の憧れとする歌手は、ソウル・スターラーズのテナー、レバート・H・ハリスであった。
そして、1951年にそのスターラーズに加入、その後「ユー・センド・ミー」がヒットする1957年まで在籍していた。
スターラーズに在籍していた時にも彼は活躍をしていたが、スターラーズ時代末期には、クック自身の中にもポップスへの憧れが膨らんでいた。そして、先程挙げた、「ユー・センド・ミー」のヒットを期に、ポップスの世界に本格的に進出していったのである。そして、1960年にメジャーのRCAに移り、白人の聴衆に向けてもヒットをとばすことになった。
彼が成功した理由は、一つは曲作りの才能であった。人の心をつかむメロディーと斬新な感覚の歌詞を書くことができた。それまでゴスペルの歌詞は、苦しみや呻き、救いを求める心を歌っていたが、彼の詞は、明るく多くの人が共感できるものだった。そして、もう一つは、このような歌を甘い声で、そして時にシャウトして歌うことのできる力を持っていた点である。そして、彼は多くの人気を得ていった。(中河伸俊「サム・クックとジェームス・ブラウンの対照的な魅力」、p.475)
彼が他の歌手と異なっていた点として、白人社会での成功を目指す一方で、自らの音楽出版会社や黒人音楽のレーベルを設立したりするなど、黒人アーティストの権利の獲得、表現の可能性を追い求めたことも挙げられる。すなわち、白人社会への同化を願う一方で、自らの文化的基盤に強いこだわりを示すというところに彼の偉大さがあった。サム・クックが特別視されるのは、音楽面での先駆性だけではなく、このようなものによる。(平野孝則「ソウルの誕生」『無敵のブラック・ミュージック CDガイド380』音楽之友社、1994、p.158)

その後、続々と多くの歌手が、ゴスペルの世界からポップスの世界へ飛び立った。アレサ・フランクリンなどは、ポップスの世界でも大きな成功を収め、現在でも素晴しい歌手の一人として捉えられている。
そして、彼女たちの先陣をきってポップスの世界へとはばたき、道を開いた歌手こそ、サム・クックなのである。彼は、ゴスペルとポップスをソウルという形でつなぎ、そして黒人のものであったゴスペルを、白人に対しても開いたのである。

4.3 黒人音楽から白人音楽への転化

4.3.1 白人の演奏する黒人音楽

現代でも多くの人に愛されているロックのスター、エルヴィス・プレスリー。彼は、幼い頃から黒人音楽に親しみ、その結果白人に黒人音楽を広げる役割を果たした

彼は、1935年にミシシッピ州メンフィスに生まれた。メンフィスには黒人が多くおり、彼が小さいときから、白人音楽のカントリーの他にブルース、ゴスペルに触れることができた。そして、その中でも、ゴスペルに最も情熱があった。(BS2『加山雄三・心の音楽紀行~プレスリーの人生をたどるアメリカ南部の旅』プレスリーの最初の恋人、ディキシー・ロックの証言)
彼は、1954年、メンフィスのサン・レコードからデビューし、またたく間に合衆国中に名を広げていった。しかし、彼の演奏は当時においてはあまりに攻撃的で、特に歌いながら腰を振る仕草が露骨に性的であると批判され、主要なテレビ局は放映を躊躇していた。
また、1956年に、プレスリーはNBCの人気番組「スティーヴ・アレン・ショウ」に出演したときに、身体のアクションの制限、タキシード着用、バセット犬相手に「ハウンド・ドッグ」を歌いかけるということを強いられた。また、エド・サリヴァン・ショーに出演したときも、下半身の腰の動きが下品だとして、彼は上半身しか映されなかった、という有名なエピソードがある。
しかし、その後プレスリーは多くのヒット曲を飛ばし、映画出演も行うなど、国民的なスターになった。勿論、彼の出したレコードは多くの枚数を売り上げた。

彼の生まれや幼少期の音楽との触れ合いを考えると、プレスリーの音楽に黒人音楽の影響が大きいことは疑いない。それを示すものとして、彼の音楽がラジオでかかった時、それが黒人の歌った歌だと思われていた、という例もある。 それだけ、黒人的な要素が強かったにも関わらず、彼は若者に大きな人気があった。しかし、保守的な大人からは憎まれていた。何故、そのような人気を得ることができたのか。

そこで、もう一つの例を挙げてみたい。当時アメリカで流行していたロック・バンド、ビーチ・ボーイズである。
ビーチ・ボーイズのメンバーは、若いときにR&Bに夢中で、とくにリトル・リチャード、ファッツ・ドミノ、チャック・ベリーに夢中であった。黒人音楽に大きな影響を受けていたことは、容易に想像できる。
そして、その後、「サーフィン」、「サーフィン・イン・USA」、「サーファー・ガール」とヒット曲を飛ばしていった。しかし、彼らの演奏の映像をみると、後ろで白人の若い男女が踊っていたり、青い海で若い白人の男女が映されたりしている。また、曲の感じも、決して黒人音楽(ブルースやR&B)を想像させるものではなく、明るい感じに作られていた。
エルヴィス・プレスリー、ビーチ・ボーイズの例から、いくつかの特徴がみられる。
第一に、演奏をしている彼らが白人であり、例え黒人音楽を演奏していても、白人が演奏している白人音楽として、つまり白人というフィルターを通すことで、黒人音楽が白人音楽へと変化したのではないか、という点である。そのため、多くの人にとって、彼らの歌は拒絶されることなく、人気につながったのではないか。
第二に、十代から二十代にかけての若者が、彼らを受け入れたという点である。エルヴィス・プレスリーは、そのハンサムで少し不良のようなルックスで、十代の女子に熱狂的に受け入れられた。そして、ビーチ・ボーイズは、彼らの育ちの良さそうな服装や振る舞いが、共にサーフィンを楽しむような大学生に受け入れられた。
つまり、彼らが受け入れられた理由として、演奏の素晴しさ、楽曲の良さの他に、彼らのイメージに多くの若者が同調できたため、という事が挙げられるのではないだろうか。

4.3.2 イギリスからの逆輸入

第二章で述べたように、ブルースはヨーロッパ人の手によって研究が深められたり、ブルース歌手が再発見されたりした。そして、そのイギリス発のブリティッシュ・ロックが、アメリカで大きな反響と共に受け入れられたのである。

イギリスにおけるアメリカ音楽の受容は、まずラジオやレコードを通じて行われ、次にイギリス人による模倣と応用が試みられた。(飯田清志「ロック対アンチ-ロック」『研究紀要』宮城工業高等専門学校、35巻、1999、83-96頁、p.91)
少し時代が戻るが、イギリスでは、第二次大戦以前からジャズ音楽が人気を得、ナイト・クラブなどでは、アメリカから来たビック・バンドやイギリス人の楽団が出演をしていた。そして、大戦後になると、アメリカでのモダン・ジャズの影響を受け、イギリスでも小編成のコンボが、数多く現われた。
1950年代は、アメリカにとっては栄華を極めた時代であった。しかし、イギリスは、戦勝国であったものの、人的、物質的被害、植民地の喪失により、経済的にも政治的にも下降状態にあった。このような状況下にあって、労働者階級の青年層は、雇用の減少と階級社会の閉塞状況に不満を募らせていた。このような集団の熱狂的支持をあつめたのが、ブルースでありロックであった。
イギリスのロックは、演奏家と聴衆の年齢、階級が同じであり、演奏も酒場のステージといった狭い空間で行われることが多かった。そして、演奏される曲は、黒人のものに近いR&Bや初期のロックが中心で、これらを模倣した自作曲がバンドの個性を作っていった。(飯田清志「ロック対アンチ-ロック」、p.92)
アメリカから渡ってきた黒人音楽が、イギリス人の手を経て、アメリカに逆輸入されていくことになるのである。

まず一つ目として、ジミ・ヘンドリックスを例に挙げたい。彼は、元々はアメリカ出身の黒人のギタリストだったが、まずイギリスで人気を博し、その後アメリカに戻っていった。
彼がイギリスに渡ったのは、ほとんど偶然といえるものだった。彼が南部にツアーをしたとき、ブルースが流行していた南部では、彼の演奏は当時においては進みすぎており、異質であった。しかし、あるクラブでの演奏を、ローリング・ストーンズのメンバーのガールフレンドだったリンダ・キースに見い出され、イギリスへ渡ることになった。そして、1966年にロンドンへ出発した。
60年代のイギリスは、保守的でありかつ突飛という矛盾した状態にあった。そんな中、レコード会社による買い占めといった操作や、海賊盤をかけるラジオ局が彼の曲をかけることで、次第にジミ・ヘンドリックスの存在が知られるようになった。そして、こうした戦略の共に、イギリスでは人種は問題にされなかった、ということもあり、彼の曲はイギリス中でヒットした。
メディアは、ジミを危険なイメージで売り出した。彼のコンサートでは、ギターが焼かれたりアンプが壊されたりした。しかし、実際の彼は、クラシック音楽を好む優しい人間だった。(『ジミ・ヘンドリックス~神になったギタリスト』BBC、1999)メディアが、一般に知られるジミ・ヘンドリックス作り上げたのである。
イギリスでの成功を手に入れ、1967年に彼はアメリカに戻った。そして、アメリカツアーも行った。しかし、ファンと彼の距離は、次第に離れ始めていた。ファンは彼に、メディアが作り出したイメージ、暴力を求めており、「ヘイ・ジョー」、「パープル・ヘイズ」、「フォクシー・レディー」の三曲が、いつもと同じスタイルで演奏されることを求めた。そして、ジミ・ヘンドリックスは、そのようなずれに、次第に悩まされるようになった。ファンは、彼に自分たちの持つイメージを求めたのである。

次に、イギリスで誕生し、その後アメリカに渡ったバンド、レッド・ツェッペリンを例に挙げたい。
1970年代のロック・シーンを支配していたといってもよいバンド、レッド・ツェッペリン。現在でも彼らは特別視され、彼らの1枚目から4枚目のアルバムは、現在でもロックのバイブル的な価値で捉えられている。
彼らは、勿論ブルースから大きな影響を受けている。このバンドのメンバーでもあり、プロデューサーでもあったジミー・ペイジは、ブルースの影響について次のようにいっている。

(影響を受けたブルース・ギタリストは?、という質問に対し)
「バディ・ガイ、オーティス・ラッシュが好きだった。もちろん、B.B.キングやアルバート・キングが嫌いってわけじゃない、ロバート・ジョンソンも好きだよ」(ワイ・ジー・ブック編集部編『ギター・レジェンド ジミー・ペイジ/レッド・ツェッペリン大特集』、シンコー・ミュージック、p.22)

彼らは、レコードの中でブルースをカバーしたり(ファースト・アルバム「レッド・ツェッペリン」に収録された「ユー・シュック・ミー」など)、またブルースを盗作し(セカンド・アルバム”Ⅱ”に収録された「レモン・ソング」が、ハウリン・ウルフの「キリング・フロア」の盗作と言われている)、自分たちのクレジットで発売したこともある。あまりよい例ではなかったが、彼らのブルースに対する意識を示しているのではないか。

アメリカで誕生したブルースが、レコードによりイギリスに輸入され、そしてイギリスでカバーされた。勿論、アメリカにおいても、ブルースはカバーされていた。しかし、アメリカでのブルースのカバーは、主にブルースの形式のコピーだった。
一方、イギリスでのカバーは、よりオリジナルのスタイルに忠実なようにカバーがなされた。彼らがブルースを演奏したのは、この音楽に対する真の愛情、尊敬、情熱ゆえのことだった。(キャサリン・チャールストン『ロック・ミュージックの歴史』、p.172)
ブルースのコピーを行い、そして、後世に大きな影響を与えたギタリストとして、先程も挙げたジミー・ペイジ、エリック・クラプトン、ジェフ・ベックらがいる。また、グループの例として、ローリング・ストーンズ、クリーム、レッド・ツェッペリンが挙げられる。
彼らはイギリスだけでなく、アメリカでも大きな人気を得た。そして、彼らに共通する、激しく攻撃的な演奏は、ブルースではなく、ハード・ロックとしてジャン分けされた。

ジミ・ヘンドリックスは、暴力というイメージによりアメリカに受け入れられた。また、イギリス発のブルース・ロックは、ハード・ロックと名を変えて受け入れられた。
ここでもやはり、イメージがそれぞれの受容に大きく作用している。ジミ・ヘンドリックスは、暴力というイメージと結び付けられた。イギリスから逆輸入されたブルース・ロックは、白人により演奏されたブルースであり、ここでも白人というイメージが結び付けられた。そして、このイメージによって、初めてアメリカが受け入れたのではないか。

4.3.3 ヒット・チャートを賑わす黒人音楽

サム・クックの箇所でも述べたように、60年代に入ると、次第にヒット・チャートにソウルが入るようになった。当時の代表的な歌手として、マーヴィン・ゲイ、フォー・トップス、スプリームスなどが挙げられる。そして、これらの歌手を世に出し、そして60年代の音楽業界を代表する会社が、モータウンである。
モータウンは、1960年に設立され、このときにモータウン、タムラといったレーベルだけでなく、楽曲出版会社、スタジオ、企画会社、マネージメントまどの関連会社を全て作り、自分たちの育てる歌手、音楽を一括して管理できるようにしたことが、大成功につながった。(五十嵐正「モータウン小史」『無敵のブラック・ミュージック』、p.162)
モータウンからは、多くの黒人のスターが誕生し、また大きな売り上げも記録した。この会社は1960年代に絶頂期を迎えたが、その成功は、エディ・ホランド、ラモント・ドジャー、ブライアン・ホランドからなる、H-D-Hソングライターの活躍による。彼らの曲は、覚えやすいフレーズの繰り返しを強調した曲構成、軽快なリズムなどの特徴を持っており、彼らの作った曲がビルボードでも上位に食い込んだ。このようなモータウンの活躍が、アメリカ白人の十代に黒人音楽を持ち込む、ということにつながったのである。(John Fitzgerald “Motown crossover hits 1963-1966 and the creative process”,Popular Music(Cambridge University Press)14/1,1995:1-11,p.1)

モータウン・サウンドの重要な要素の一つが、ゴスペルである。黒人ミュージシャンのほとんどが、幼い頃に教会に通っていたり、またレコードなどによってゴスペルを経験していた。ゴスペルの影響は、テンポ、リズム、シンコペーション、フラット化された音といったところにみられ、ゴスペルがモータウンに大きな影響を与えたことは疑いない。(John Fitzgerald “Motown crossover hits”,pp.3-4)
しかし、これらの成功にも関わらず、当時の歴史家、ジャーナリストは、他の主要ジャンルに比べて、モータウンにあまり関心を持っていなかった。彼らの研究対象は、ボブ・ディランやビートルズに向かっていたのだ。また、モータウンの音楽は、古くさい音楽である、ぞっとする音楽である、というような攻撃も受けていた。
けれども、モータウンの音楽は、黒人にも白人にも受け入れられた。モータウンは、サム・クックの開いた道を進み、ジャンルを越えたヒット生み出したのである。そして、このヒットは、ポップスに新しい要素、ゴスペル、黒人音楽の要素を注入することになったのである。モータウンのヒットが、白人が黒人音楽をオリジナルのままで受け入れた最初の例となった。(John Fitzgerald “Motown crossover hits”,p.8)

4.3.4 黒人音楽内の変化

戦後のR&Bの誕生、そして、それが段々と拡大していく動きを第2章で述べた。そして、それらの黒人音楽がヨーロッパへ渡り、アメリカへ逆輸入されたことを第四章で述べた。
しかし、黒人音楽の中でも、変化が生じていた。黒人音楽が、白人のポップスのように変化していったのである。
その変化について、チャック・ベリーの「ジョニー・B・グッド」を例にして考察してみたい。

まず、この「ジョニー・B・グッド」の1番の歌詞を載せる。

Deep down in Louisiana, close to New Orleans
Way back up in the woods among the evergreens
There stood an old cabin made of earth and wood
Where lived a country boy named Johnny B. Goode
Who’d never learned to read or write so well,
But he could play a guitar just like a ringin’

Go ! Go !
Go ! Johnny,go ! Go !
Go ! Johnny,go ! Go !
Go ! Johnny,go ! Go !
Go ! Johnny,go ! Go !
Johnny B. Goode. (チャック・ベリー《ジョニー・B・グッド~チャック・ベリー・ベスト》マーキュリー、PHCR-12529、1997、解説より引用)

この歌詞と、それ迄の古いブルースの歌詞を比べてみると、違いがはっきりする。
古いブルースの歌詞の特徴として、表現の生々しさが挙げられる。特に、性行為を暗示させるものや女性に関した歌詞には、多くの例がある。
しかし、チャック・ベリーの「ジョニー・B・グッド」の歌詞では、そのような要素は全くみられない。まるで、普通の日記のような言葉で書かれている。勿論、性的なものを連想させることはないし、日々の辛さを歌ったものでもない。
この他にも、「ジョニー・B・グッド」の歌詞からは、いくつかの特徴がよみとれる。
まず第一に、主人公である”Johnny”が、黒人であるか白人であるかわからない、聞き手の判断による、という点である。(Timothy D. Taylor “His name was in light:Chuck Berry’s ‘Johnny B. Goode”,Popular Music(Cambridge University Press)11/1,1992:27-40、p.30)黒人、白人がはっきりしないため、多くの人に受け入れられた。また、ラジオ局でも、黒人向け、白人向けを問わず、流すことができた。
第二に、この「ジョニー・B・グッド」のみならず、チャック・ベリーの作る歌の歌詞に、多くの人が共感できた、という点である。彼の歌詞は、普通の出来事を普通に描いている。そのような点が、多くの人々の共感を得たのである。
これらの点が、当時レコードの最も大きな消費者層だった十代の男女に支持され、チャック・ベリーの歌が広がっていったのである。(湯川新『ブルース』、p.192)

「ジョニー・B・グッド」では、歌詞だけではなく、音楽的な面においても変化が生じた。
「ジョニー・B・グッド」は、コードの進行からみると、いわゆるブルース進行を基に作られている。しかし、一度聞くと、古いブルースとは異なることに気付く。
彼の歌のメロディーは、歌詞と同じように古いブルースとは異なり、白人の作ったポップスのような、明るいという印象がまず浮かぶ。古いブルースの様に、辛い内容の歌詞を重い雰囲気で歌うのではなく、チャック・ベリーは、普通の内容の歌詞を、白人の間で歌われてきたポップスのように歌うことで、黒人音楽の新しいバリエーションを生み出したのである。

4.3.5 イメージによる受容

これまで、いくつかの例を挙げて、黒人音楽が受容されていく過程を論じてきた。そして、その受容の過程において、イメージという要素が大きな影響を及ぼしていた。
つまり、黒人音楽がそのまま受容されることはなく、エルヴィス・プレスリーやビーチ・ボーイズといったアメリカの白人、イギリスから逆輸入されたブルース・ロック、ポップスの影響を受けたソウルといったものに姿を変えて、初めてアメリカ白人に受け入れられたのである。

アメリカ白人が、黒人音楽を直接の形では受け入れなかった例として、70年代のブルース市場の衰退がある。
イギリス発のブルース・ロックによる影響で、アメリカ国内でも白人がブルースに触れるようになり、いくつかの白人レーベルが誕生した。しかし、アメリカにおいてブルース・シーンは、ロック程は盛り上がらなず、また若い演奏家も、多くは現われなかった。(添田秀樹「モダーン・ブルース-70年代以降のブルース」『ジャズ批評 黒人雑学事典』、p.463)
60年代から70年代にかけてのロックの盛り上がりにも関わらず、そのルーツとなった黒人音楽は、白人の間では、受け入れられなかったのである。白人の演奏するブルースは受け入れたが、黒人の演奏は、それ程受け入れない。この事実が、白人の黒人音楽の受容、イメージによる受容を示しているのではないか。

目次

序 1 レコードの歴史 1.1 レコードの歴史についての概略 1.2 レコードがもたらした社会的影響 1.3 ラジオがもたらした影響 2 ブルースにおけるレコード 2.1 ブルースの特徴 2.2 ブルースの歴史 2.3 […]

現在、我々の周囲は多くの音楽で溢れている。その中で、もっともよく聞かれているのが、いわゆるロック、ポップスと呼ばれるものであろう。 このロックという音楽は、1950年代から歴史に登場した新しい音楽である。そして、この音楽 […]

第一章-レコードの歴史

1.1 レコードの歴史についての概略 レコードの歴史は、1877年のエジソンによるフォノグラフの発明から始まった。もちろん、他の研究者の中にも、録音装置について研究していた者は多くいた。しかし、ビジネスについて考えていた […]

第二章-ブルースにおけるレコード

2 ブルースにおけるレコード 2.1 ブルースの特徴 序章で述べたように、ブルースは黒人の心の歌である、と簡単に定義づけることはできない。しかし、多くのブルースには、いくつかの共通点がある。そのような共通点を論ずることで […]

第三章-ゴスペルにおけるレコード

3 ゴスペルにおけるレコード 3.1 ゴスペルの特徴 第二章と同様に、まずゴスペルとはどういう音楽であるか、ということに関して論じてみたい。 既に序章で述べたように、ゴスペルという言葉は、福音という意味を持つ。このことか […]

第四章-黒人音楽から白人音楽への転化

4 黒人音楽から白人音楽への転化 4.1 アメリカ社会の動き 黒人音楽は、1950年代から60年代にかけて拡大を始めた。そして、その舞台となったのは、アメリカである。黒人音楽の具体的な論に入る前に、1950年代から60年 […]

第五章-まとめとして

5 まとめとして 今世紀に大きく発展した音楽産業。ロック、ポップスは、その発展に大きく関与してきた。そして、ロック、ポップスの基礎となったのが、ブルース、ゴスペルといった黒人音楽である。 しかし、20世紀の初めに誕生した […]

参考文献

参考文献 David Crawford”Gospel Songs in Court:From Rural Music to Urban Industory in the 1950s”,Journa […]